本年の参拝案内
by myou_sanpai
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未の方の妙見さん
 当山は、旧洛南八条東寺(教王護国寺)の北門前に在りましたが、旧国鉄新幹線敷設により下京区西新屋敷(島原)の地に移転する。
 嵯峨天皇時の弘仁十四年(823)東寺塔頭法華堂として創建されました。時は下り仁治三年(1242)日蓮聖人御年21才、八宗研学の為、鎌倉を発って根本道場比叡山に登り天台宗を学び、間もなく円頓房の主となり24才にして、横川定光院の住持となり叡山四天王の一人とうたわれていました。園城寺、南都七大寺、高野山、攝津、天王寺、京洛泉涌寺等六宗の奥義を学び、建長三年(1251)御年30才の時、八条法華堂の別当で東寺の学匠である真広法印に師事して1年余の間、寝食を共にし東寺密教の秘要を学ぶ。
 建長五年(1253)宗祖比叡山を発って清澄に還り同年4月28日末法救護を誓い立教開宗を宣言される。これを以って顧るに当山は京都、関西に於ける宗祖が止住された数少ない霊地である。
 境内の井戸は宗祖が御手堀しものを再現したもので、硯水として御使用され御閼伽と称されていた。又、本堂内に安置する宗祖の立像は「わらじぬぎの祖師」として後世に伝へられている。
 真広法印は宗祖を一見してその凡ならざるを知り別離の後三十余年の間忘すれることなく、弘安四年(1281)の春、老躬にムチ打ち身延山に宗祖を尋ね法華の奥義を極めて宗祖の直弟子となり、成就山法華寺の呼称と弟子曼荼羅(後の若宮本尊或は竹筒の本尊と称するもの)を授り帰京、更衣して宗祖を開山に仰ぎ自らを二祖とし信心堅固にして「我覚天を突く御身なれば法華経宣揚に尽す事もとより不惜身命なり」。
 その後日像菩薩京都弘通の際には、当山を宗祖の遺跡として偲ばれるていた。日像菩薩迫害されしとき真広法印も又東寺僧俗の怒りをかつて堂宇を焼討され竹筒曼荼羅を奉持して若宮新宮に安居を求められるところとなる
 受戒の後、読経実に一千六百廿余部延慶四年(1311)五月二日寂す。
三祖は浄広法印、四祖は一条関白経継公成園寺殿の姫妙定法尼、法尼は精舎を結んで法華院と称し、その後律師が相継ぎ法燈を継承する正保年間に至って天文法乱後再度閉きれたる当山も、十一世善龍院日念上人が宗祖の霊跡なりと思慕の情を以って当地に小精舎を復現して法華堂となす深草の元政上人が宗祖霊地巡錫の折「東寺の門前に古梵宮あり…」(真筆現存)の詩を残してこの事を後世に記す
当山に妙見大菩薩の尊像を安置されるは洛陽十二支妙見の中「未の方」の妙見宮なり、明治初年に至る迄京阪神の信者多く渇仰されたるところの霊像であった。
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by myou_sanpai | 2015-02-24 21:13 | 法華寺
道入寺 沿革
日蓮宗道入寺は、比叡山への登山道、修学院離宮のすぐ近くにあります。
 この寺は、正保三年(一六四六)に尊眼院日長上人によって聞かれました。日長上人は霊験顕著な大行者で、生まれは摂州(現在の大阪府)です。両親は熱心な法華経の信者で、成長に随って強い信仰がめばえ、十七才のとき発願して仏門に入り、二十二才の秋、夢中に日像菩薩(日蓮聖人の法孫)を拝み、「南無妙法蓮華経」の七字のお題目を筆に著わされました。日長上人はこの事を歓こび、日夜修行に精進され、満百日、四条河原に石を拾い法華経を書写され、やがて都の艮に当る修学院村雲母坂の奥、愛宕谷の滝つぼに入り、石上に座られ断食二十一日、ついに悟りを開かれ、勇猛堅固の行者となられました。
 その頃、旱魃に苦しむ民・百姓の依頼で、雨乞いの祈祷をされ、慈雨を降らす等、祈祷修法による信者が多く、熱心な信者の本願もあって、現地を日長上人、居住苦行の霊地とし、ここに道入寺が建立されました。
 以来、開山日長上人の意を継承し、法華経信仰の祈祷道場として今日に至っています。
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by myou_sanpai | 2010-04-10 18:01 | 道入寺